思い出の場所に行ってきました

今年も、妻とお墓参りに行って来ました。昨年よりちょっと早めでしたが、紅葉が始まっている様です。

実は、早めのお墓参りになったのは、先生には大変失礼なのですが、勝手な事情がございまして…。

わたくしと妻は二人とも歳を重ねてからの結婚だったものですから、式を挙げませんでした。学生時代より、先生には何かと心配ばかりお掛けしていたわたくしの結婚に、ありがたいほどの祝福の言葉をいただいたのですが、妻を連れて出席したOB会の席で、「せめて写真位撮った方がいい」と先生ご夫妻に写真撮影のプレゼントをいただいたのです。

写真撮影は、鶴岡八幡宮の門前にある結婚式場鶴ヶ岡会館で行い、その後、鶴岡八幡宮で、宮司にお祈りいただき、華正樓の鎌倉大仏店でお食事という、なんとも、もったいないほどのお祝いでした。

その旧華族の別荘を改装した華正樓の雰囲気が忘れられず、昨年も予約しようとしたのですが、10月下旬は七五三のシーズンと重なり、個室どころかレストラン席の予約もとれず、断念。そこで、今年はちょっと早めのお墓参りとなったのです。先生、ごめんなさい。

お墓参りの後、華正樓を訪れると、個室に通されました。予約時にはレストラン席と聞いていましたので、うれしい誤算です。相模湾を望めるすてきな個室でした。妻と二人で先生ご夫妻と食事したあの日を思い出しながら、静かで贅沢な時間を過ごしました。あの日と同じく、ふかひれスープ、おいしゅうございました。

ところで、今年、日本は大変な試練を経験しました。被災された方々のご苦労は、まだまだ続きます。「がんばろう!日本。生かされている命に感謝し…」、震災直後の選抜での選手宣誓に、日本国中が胸を熱くし、真摯に「生きる」とことに向き合った年となりました。有名・無名を問わず、民間の支援のスピードはとても速く、自分は大したことはしていないのに、日本人であることに誇らしい気持にもなりました。が、それに引き換え、政治家特に国会議員の無能ぶりは、何なのでしょう。先生はどう思われているのかな。

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鎌倉の紅葉はまだ先ですね

楠精一郎先生のご命日二日前となる本日、妻とお墓参りに行って来ました。

昨年、OBの方々とOB会を兼ねての墓参の際は雨降りだったのですが、本日はちょっとひんやりとした風も心地いい秋の晴天。

自然豊かな公園墓地である霊園ですが、写真の通り、木々はまだ緑一色。関東では、群馬まで紅葉しているようですが、鎌倉の紅葉はまだまだ先ですね。

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「稲村ヶ崎だより」新装しました

本サイトは、法学博士楠精一郎氏が短期間ながら発信されたブログサイト「稲村ヶ崎だより」の保存サイトです。

Webmasterのミスで前サイトの閲覧が不可となってしまい、改めてWordPressにて新装となりました。

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楠精一郎先生を偲ぶ会のお知らせ

この度、高崎経済大学の楠ゼミOB生で、「楠精一郎先生を偲ぶ会」をご命日の前日の10月24日(土)に行うこととなりました。

特にかしこまった会ではなく、「お墓参をして、食事会で先生の思い出話を」といったものです。

楠先生の教え子のみなさん、参加ご希望の方は、info@s-kusunoki.netまでご連絡下さい。

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楠精一郎儀永眠いたしました

楠精一郎儀かねて療養中のところ、2006年(平成18年)10月25日すい臓がんのため永眠いたしました。

故人は当ブログ開設以降、精力的に投稿を続けておりましたが、すい臓がんの告知後、治療に専念することとなり、ブログの更新を中断しておりました。
再開されることなく息を引き取ることになり、誠に痛惜の念に耐えません。

わずかな期間ではございましたが、当ブログをご覧いただきました皆様には、故人に代わりまして心より御礼申し上げます。

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急進的デモクラット植原悦二郎と憲法改正

明日5月3日は憲法記念日です。そこで、既に戦前、帝国議会の代議士でありながら、国民主権をとなえ、婦人参政権を主張した急進的デモクラット植原悦二郎(政友会所属)のことを紹介します。

植原は英米の大学で政治学を学んだ学究で、帰国後は明治大学教授などになりました。犬養毅の勧めで、大正六年の第13回総選挙から代議士となり、生涯に通算13回当選しました。しかし、反大政翼賛会派であったため、昭和17年の翼賛選挙では、官製の翼賛政治体制協議会からは非推薦となって、官憲から激しい選挙干渉をうけて落選。ところが、翼賛選挙では「非国民」扱いだった植原も、戦後は一転して入閣を果たすことになります。

第一次吉田内閣では無任所国務大臣となり、次いで同内閣の途中から警察の総元締めである内務大臣となりました。日本国憲法が公布されたのは昭和21年11月3日ですから、植原はこのとき国務大臣として憲法改正案に副署しています。大正時代から国民主権説を唱え、象徴天皇論など日本国憲法の内容を先取りするような主張を展開していた植原にとって、まさにこの憲法は彼の理想に合致するものであったはずでした。ところが、植原は閣僚のひとりとして憲法制定の議会に臨みながら、憲法担当大臣を金森徳次郎に譲って制定過程には積極的な関わりをちませんでした。それはなぜでしょうか。

岸信介内閣の下で設置された憲法調査会の第9回総会(昭和33年2月5日)に、植原は参考人として出席し発言していますが、ここでその真意を明らかにしています。それを要約すれば、改正案はマッカーサー草案を鵜呑みしたものであり、修正を要する箇所が多く存在するにもかかわらず、いかなる修正をも許されないからでした。ただし、単にこれがアメリカから与えられた憲法だから、というわけではありません。では、どこか問題だったのでしょうか。

それは、第一に、独立国として軍備を持たないという点。これでは、国連に加盟した場合、加盟国としての義務を履行しえない。第二に、参議院議員が直接選挙のために参議院と衆議院とが重複し、二院制度の存在理由がなくなる。第三に、地方自治制度に財源が伴わないこと。第四に、憲法改正手続きが厳格過ぎて、実際上改正は不可能になったこと、です。いずれも、今日において改憲論議の焦点となるべき課題ですが、あらためて植原の先見性に感服するほかありません。詳しくは、7月刊行予定の拙著(朝日選書)をご覧下さい。

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自民党と民主党はどこが違う?

衆院千葉7区補選で僅差ながら勝った民主党は、いま勢いに乗っています。ほんの少し前までメール問題で絶体絶命だったのに。この結果は、どう考えても候補者や政策のよしあしではなく、代表選挙で民主党にマスコミが一斉に注目したことによる情報量の差でしょう。加えて、小沢新代表への期待、ご祝儀票でしょう。

そもそも、自民党と民主党との間にどのような政策の差があるのか、きちんと説明できる人は、おそらく両党の所属議員も含めて多くはないはずです。むかしの自民党と社会党の対決を懐かしむ人、ことに「護憲派」といわれる人は、安全保障や外交、憲法問題に両党の大きな開きがないことを問題視して、「翼賛議会」だなどと批判しますが、それは間違いだと思います。そもそも、相手のある安保・外交政策や、国の基本法である憲法について考えに大きな隔たりがあることが問題だったのです。だから自社両党間では政権交代できなかったのです。

自民党と民主党はもっと違うところに対立軸をもとめるべきでしょう。自民党は昨年11月に新たに定めた「新理念」のなかで、「文化と伝統」の擁護・発展を掲げていますが、いっぽうの民主党の「基本理念」には「文化と伝統」という語句は出てきません。代わって民主党のほうは、「基本政策」で「生活者」「納税者」「消費者」の立場を代表することを謳っています。つまり、大まかに言うなら、自民党は「伝統的共同体」を重視する保守政党、いっぽうの民主党は「個人」を重視する「中道政党」といったところでしょうか。こうしたスタンスを、個々の政策でより鮮明にしてもらえれば、選挙において政党・政策選択が容易になるはずです。

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ヨコハマ大道芸

一昨日のことになりますが、この土日に行われた横浜大道芸を見物してきました。まず、みなとみらい21の赤レンガ倉庫前からイセザキモール、吉田町通り、野毛、関内馬車道、とあちらこちらで繰り広げられる大道芸のはしごをしてきました。昨年は横浜大道芸の元祖である野毛大道芸が30周年だったこともあって、野毛ではかなり大々的だったようですが、今年は野毛に行くと昨年ほどの熱気は感じられませんでした。それでも、缶ビールを飲みながら、パントマイムを見たり、シャンソンなどを聴くのは最高の気分です。

私は横浜のエキゾチックな雰囲気が大好きなのですが、どうも次第に普通の街になっていくのが残念です。たとえば、日活映画の舞台にもなった山下町のバンドーホテルが、ドンキホーテになったのはがっかりです。終戦直後の雰囲気を残す瑞穂埠頭のバー・スターダストはまだ健在でしょうか。

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中選挙区制ノスタルジア

現在、『大政翼賛会に反対した代議士たち』の原稿リライト作業を進めていますが、かつてはずいぶんと味のある代議士たちがいたものだ、とつくづく思います。それは戦時中という時代のせいもあるでしょうが、やはり中選挙区制という個人中心の選挙制度のためもあったでしょう。もっとも、私は小選挙区制論者ですが、小選挙区制を意義あるものにするためには、もっと政党が候補者の人選に責任をもたなければなりません。有為な人材を発掘することはもとより、その選考過程も可能な限りオープンにする必要があります。その意味では、現在行われている千葉の衆院議員補欠選挙には、いささか考えさせられます。一部の週刊誌が報道するように、片方の前副知事(ただし埼玉県)という経歴はよいとしても、公募を建前としながら公認候補者決定の実態は「出来レース」であったとか、もう一方は「26歳の若さ」と「女性」(県議といっても、まだ当選して1年余)という以外にさしたる特徴もない候補者、これでは少し政治に理解と関心のある有権者はしらけてしまうのも無理はないでしょう。

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もうひとりのクスノキセイイチロウさん

昨日、鎌倉の御成通りを歩いていたら、ある知人とばったり会うなり「最近、精一郎さん、**という雑誌に書いているね」と言われて面食らいました。そうです、その「雑誌に書いている人」こそもう一人の「クスノキセイイチロウ」氏、正確には「楠木誠一郎」と書く、歴史作家さんです。年は私より8歳も年下のうえ、その名前はペンネームなので、私が彼の名前を真似したわけではありません。念のため。ただ、『石原莞爾』とか近代史についての著作もおありなようで、いささか紛らわしですね。実際、彼を私だと思っている人に会ったのが、これで三度目です。彼はかなり多作なようなので、私も負けずに頑張らねば。とりあえず、『大政翼賛会に反対した代議士たち』の発表を急ぐことにします。

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