大政翼賛会に反対した代議士たち

現在、一昨年3月から昨年5月まで自由民主党機関紙『自由民主』に50回連載した「気骨ある政治家たち―翼賛体制に立ちむかった37人」を某出版社(大手新聞社出版局)から上梓(上記のタイトルに改題の予定)する予定でリライトを進めています。毎回、自転車操業的に書いていた原稿を、あらためて本にする作業はけっこう骨が折れます。また、原稿の量も倍にしなければならないので、ネタ集めにも苦労しています。これが終われば、いよいよ10年来の某出版社との約束の『西尾末広伝』に取り掛からなければならないので、連休明けまでに仕上げる予定ですが・・・。

Posted in 雑記 | Leave a comment

世が世なら男爵?

ついタイトルにつられて、小田部雄次氏の『華族』(中公新書)を買いました。まだ全てを読んではいませんが、相当に読みごたえがありそうです。この中で、拾い読みして気になったのが、明治17年7月7日に華族令が制定された際、旧大名でもなければ、旧公家でもない、また維新の勲功によるものでもない「忠臣の子孫」として叙爵したものがいることです。本書では、はるか南北朝の時代に南朝を支持した末裔という理由で、新田、菊地、名和の三家が叙爵したことを明らかにしています。

いずれも、後醍醐天皇の忠臣として知られた一族ですが、忠臣といえばやはり楠家でしょう。私は子供の頃、祖母が「うちも名乗り出れば男爵になれた」と言っていたのを覚えています。もっとも、父をはじめ親戚のだれも、そんな言葉をまともに信じてはいなかったようですが、私は妙に気になっていました。

ところが、ある日『毎日ニュース事典』のなかに、「楠公の正統と名乗る後裔が続々登場」(『東京横浜毎日』明治16年10月18日)と題する記事があるのに気がつきました。これは関西方面で楠氏の正統な末裔を称する人物が、大阪や京都府庁に名乗り出た、という記事なのですが、ようするに華族令の施行を前にして「忠臣」華族の認定を受けようという動きだったと推察されます。とすると、私の祖母の言葉もまんざらでたらめではなかった、ということになります。でも、このブログで紹介したように、私は傍流のまた傍流、間違っても「世が世なら・・・」と言うことはないでしょう。でも、ちょっとだけ「世が世なら・・・」と言ってみたい気もしますが、それは時代錯誤というものでしょうか。

Posted in 歴史 | Leave a comment

靖国神社についての二著

昨日、上坂冬子さんの『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)を読んだ。その前に読んだ高橋哲哉さんの『靖国問題』と比較すると、はるかに私の考えに近いものだった。後者の著者は東大で哲学を教えている方のようで、理路整然としてはいるものの、それだけのことで、結論はリアリティからはるかに離れたところにある印象を受けた。だいたい、石橋湛山が戦後の一時期「非武装」を唱えたとして、それを自説の補強としているのはいただけない。そもそも石橋は再軍備論者だし、摘み食いはよくない。歴史の不勉強と言いたい。それに対して、上坂さんは作家だけに、大衆の実感を丁寧に扱っているのに好感が持てた。なお、上坂さんの著書については、一言補足しておきたい。

戦犯問題で昭和28年8月3日、衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」がなされた際の、その少し前の昭27年12月9日、次のような衆議院付議が行われたことを同著では紹介している。すなわち、「世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であって、われわれはこれを忘れることはできません(拍手)。この世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります(中略)。われわれ全国民は、これらの人々の即時釈放を要求してやまないのでございます。」とあるが、この発言者「古屋貞雄」代議士について上坂さんは触れていないので、あえて言及すると、彼は日本社会党の代議士であった。いまの極左化した社民党の人々は、この先輩の発言をいったいどう受け止めるだろうか。

Posted in 政治 | Leave a comment

エイトマン

最近、テレビを見て気になるのが、スマップの歌う「フレッツ光」のCMです。「光る海、光る大空、光る大地、行こう無限の地平線・・・」というやつです。あれは、私の世代には懐かしい歌で、もとの歌は昭和38年からテレビで放映された「エイトマン」の主題歌でした。カラオケでもこれまで私の持ち歌として時々歌ってきましたが、ことに、世代の近い?高崎経済大学ゼミの教え子とのOB会では、カラオケ二次会の定番になっています。

今の若い人は知らないと思いますが、エイトマンというのは、桑田次郎という漫画家の描いたスーパーヒーローで、月光仮面やナショナル・キッド、怪傑ハリマオなどとならぶ人気キャラクターでした。凄いのは、エイトマンが殉職した警視庁刑事の性格や記憶をコピーしたスーパーロボット、という発想で、ハリウッド映画「ロボコップ」のアイデアをはるか昔に先取りしていたことです。ただ、その殉職刑事の名が「東八郎」というのは、今考えてみると笑ってしまいます。あの「頑張れ、強いぞ、ぼくらのなまか?」(赤胴鈴之助の主題歌)のギャグで人気のあったコメディアン(TAKE2の東貴博の父)と同姓同名だったからです。今日は、懐古趣味ですみません。

Posted in 雑記 | Leave a comment

菅直人と市川房枝

明日は民主党の代表選挙ということで、マスコミはここ数日その話題でもちきりです。私はさほど民主党の代表選挙に関心はありませんが、小沢一郎と菅直人という政治家個人には強い関心をもってきました。小沢氏についてはいずれ触れるとして、ここでは菅氏関連のことを述べておきます。

菅直人氏は市民運動から著名な政治家に成長した希少な存在ですが、政治へ関るきっかけになったのが、参院議員選挙で市川房枝(歴史的人物なので敬称略)の事務長を買って出たことでした。私は菅氏が選挙区とする武蔵野市にかつて住んでいたので、菅氏の若いときからの行動をよく覚えています。同氏の初出馬当時の私の記憶では、なにか元市川房枝事務長というのが、大衆迎合的な臭いを感じて嫌でした。というのも、私は世評に反して市川房枝という人物を好きではなかったからです。

市川房枝という人は、ポピュラーな山川出版の高校教科書『詳説日本史』にも載っているほど歴史的には有名な女性活動家で、大正9年に平塚らいてうと新婦人協会を設立し、また戦後は婦人有権者同盟会長として活躍したことで知られています。しかし、実は戦中期には国民精神総動員委員会幹事を務め、また大政翼賛会の下部組織である大日本言論報国会理事も務めており、その関係で戦後は昭和22年から25年まで公職追放にあっていました。つまり彼女の戦後の社会党・共産党に近い革新派のスタンスは、再転向であったのです。それが好きになれない一番目の理由です。

第二には、彼女の政治的リアリティのなさ、が嫌いでした。「理想選挙」を掲げる彼女がお金をかけずに当選できたのは、有名人だったからで、それゆえマスコミが好意的に取り上げてくれたからです。その情報量を広告費に換算したら、莫大な額にのぼるでしょう。しかし、市井の人間が法定選挙費用内でまじめに選挙を戦っても、ポスター代や街宣車代、供託金、人件費とそれなりに費用はかかるものです。つまり、市川房枝のやり方は普通の人には全く真似ができないやり方なのです。なのに、何かお金をかけないでも選挙ができるという幻想をふりまいていしまったのです。その結果、お金のかからない制度の設計を日本の政治は長い間なおざりにしてきました。社会学者の橋爪大三郎氏も、市川房枝と青島幸男氏の二人が幻想をふりまいた張本人と指摘し、さらには「腐敗を食い止めたいのであれば、『金をかけなくても政治はできる』などとリアリティのない主張をするのではなく、むしろその逆に、政治には必ずお金がかかるという現実を直視することから始めなければいけません」(橋爪大三郎『政治の教室』PHP新書)と書いていますが、全く同感です。

さて、このような人物をかつて担いだ菅直人という人は、その後リアリティをもった政治家として成長をとげたでしょうか。

Posted in 政治 | Leave a comment

18歳選挙権は必要か

昨日は私の54回目の誕生日。50を過ぎると、誕生日というのもあまり嬉しくないですね。手許にある旺文社の『国語辞典』(1995年版)によれば、初老とは「『40歳』の異称」とあるから、54歳はもはや立派な「老人」ということになるのでしょうか。でも、「若い」「年寄り」は所詮相対的なものでしかなく、20歳前後の学生から時々「もう若くないから」などとつぶやくのを聞くことがあります。そりゃ、赤ん坊と比べればそうでしょう。

わが国は世界一の平均寿命82歳にまで伸びたのだから、今の中学生が昔の小学生、今の30代が昔の20代、というように伸びたゴムひものように意識は幼稚化、若年化しているのではないでしょうか。

ということで、公明党や民主党などがマニフェストに掲げている18歳選挙権(選挙権の施行年齢を18歳に下げる)には、私は強い違和感を抱いています。これまで多くの学生に18歳に選挙権を引き下げるべきか聞いてきましたが、殆ど例外なく「その必要はない」と答えます。また、建前はともかく、政治家も本気でこの件に取り組んでいるとは思えませんし、先進国が18歳選挙権を実施しているから、という横並びの理屈には説得力を感じません。18歳選挙権より、高校までの段階できっちりと有権者に必要な知識と判断力を与える「政治教育」を行うほうが先決ではないでしょうか。

Posted in 政治 | Leave a comment

伏見桃山陵と乃木神社

先週の火曜日(3月28日)、京都に行った機会に、明治天皇の陵墓である伏見の桃山御陵を参拝してきました。想像した以上に敷地は広大で、上円下方形の陵墓自体も巨大なものでした。敷地内では車が二台ほど通り過ぎただけで、歩いている人には全く出会いませんでした。ここは秀吉の桃山城本丸跡地だそうです。なお、敷地内の東には昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の陵墓もあります。

また敷地に隣接して、明治天皇に殉死した乃木希典大将を祭った乃木神社があります。乃木神社といえば六本木と思っていましたが、こちらは篤志家によって大正5(1916)年に創設され、乃木さんの少年時代の家や、日露戦争時の第三軍司令部の建物などが移築されています。境内にあった乃木さんの生涯を説明したパネルに、乃木さんは子供の頃は泣き虫で、裁縫が得意だった、というのは意外でした。

Posted in 歴史 | Leave a comment

楠正成の子孫?

あなたは南朝の忠臣、楠正成の子孫か、と訊ねられることがあります。そんなときには、「どうですかね」と適当に答えることが多いのですが、実のところ自分でもよく分かりません。ただ、家紋は楠正成の「菊水」です。私の専攻は日本近代史ですから、学問的に古い時代を考証する能力はありませんが、このブログは一応「政治と歴史」をうたっているので、多少史料に基づいてわが家系をご紹介しましょう。

私の祖父は岐阜県揖斐郡大野町にある浄土真宗の寺、香焼寺の次男として生まれました。寺の16代住職となった祖父の兄は、仏教大学教授や台北高等学校教授などを務めた西蔵学(チベット学)の研究者でもありました。その住職が編纂した寺の沿革『香焼寺沿革史』(昭和12年)によれば、?楠正成から数えて7代目が南朝挙兵に失敗し、吉野から越前(福井)に逃れた。?9代目はさらに越前から美濃(岐阜)に移って来て、既に天台宗の寺として存在していた香焼寺の住職となった。このとき浄土真宗に改宗した。それは文明6年(1474)年、応仁の乱の頃であるという。?したがって、祖父の兄が寺(真宗になってから)の16代目だから、正成からは24代目ということで、私までを強引に数えるなら、私は26代目ということになる。

でも、途中、正成の曾孫あたりから三代ほど名前不詳であるし、また寺でも祖父の代までに三度ほど養子を迎えているから、血縁的にはつながっていないのです。そのようなわけで、あらためて、「万世一系」の皇室の歴史には驚嘆します。なお、同著にも「楠木正成」とありますが、ものの本によれば、正成から何代目かから「楠木」から「木」が外れたそうです。

Posted in 歴史 | Leave a comment

ブログはじめました

ブログ立ち上げのややっこしい設定はすべて専門家にまかせて、本日より開始します。といっても、今日はテスト。次回から内容を充実させてスタートします。ご期待下さい。

Posted in 雑記 | Leave a comment