急進的デモクラット植原悦二郎と憲法改正

明日5月3日は憲法記念日です。そこで、既に戦前、帝国議会の代議士でありながら、国民主権をとなえ、婦人参政権を主張した急進的デモクラット植原悦二郎(政友会所属)のことを紹介します。

植原は英米の大学で政治学を学んだ学究で、帰国後は明治大学教授などになりました。犬養毅の勧めで、大正六年の第13回総選挙から代議士となり、生涯に通算13回当選しました。しかし、反大政翼賛会派であったため、昭和17年の翼賛選挙では、官製の翼賛政治体制協議会からは非推薦となって、官憲から激しい選挙干渉をうけて落選。ところが、翼賛選挙では「非国民」扱いだった植原も、戦後は一転して入閣を果たすことになります。

第一次吉田内閣では無任所国務大臣となり、次いで同内閣の途中から警察の総元締めである内務大臣となりました。日本国憲法が公布されたのは昭和21年11月3日ですから、植原はこのとき国務大臣として憲法改正案に副署しています。大正時代から国民主権説を唱え、象徴天皇論など日本国憲法の内容を先取りするような主張を展開していた植原にとって、まさにこの憲法は彼の理想に合致するものであったはずでした。ところが、植原は閣僚のひとりとして憲法制定の議会に臨みながら、憲法担当大臣を金森徳次郎に譲って制定過程には積極的な関わりをちませんでした。それはなぜでしょうか。

岸信介内閣の下で設置された憲法調査会の第9回総会(昭和33年2月5日)に、植原は参考人として出席し発言していますが、ここでその真意を明らかにしています。それを要約すれば、改正案はマッカーサー草案を鵜呑みしたものであり、修正を要する箇所が多く存在するにもかかわらず、いかなる修正をも許されないからでした。ただし、単にこれがアメリカから与えられた憲法だから、というわけではありません。では、どこか問題だったのでしょうか。

それは、第一に、独立国として軍備を持たないという点。これでは、国連に加盟した場合、加盟国としての義務を履行しえない。第二に、参議院議員が直接選挙のために参議院と衆議院とが重複し、二院制度の存在理由がなくなる。第三に、地方自治制度に財源が伴わないこと。第四に、憲法改正手続きが厳格過ぎて、実際上改正は不可能になったこと、です。いずれも、今日において改憲論議の焦点となるべき課題ですが、あらためて植原の先見性に感服するほかありません。詳しくは、7月刊行予定の拙著(朝日選書)をご覧下さい。

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