世が世なら男爵?

ついタイトルにつられて、小田部雄次氏の『華族』(中公新書)を買いました。まだ全てを読んではいませんが、相当に読みごたえがありそうです。この中で、拾い読みして気になったのが、明治17年7月7日に華族令が制定された際、旧大名でもなければ、旧公家でもない、また維新の勲功によるものでもない「忠臣の子孫」として叙爵したものがいることです。本書では、はるか南北朝の時代に南朝を支持した末裔という理由で、新田、菊地、名和の三家が叙爵したことを明らかにしています。

いずれも、後醍醐天皇の忠臣として知られた一族ですが、忠臣といえばやはり楠家でしょう。私は子供の頃、祖母が「うちも名乗り出れば男爵になれた」と言っていたのを覚えています。もっとも、父をはじめ親戚のだれも、そんな言葉をまともに信じてはいなかったようですが、私は妙に気になっていました。

ところが、ある日『毎日ニュース事典』のなかに、「楠公の正統と名乗る後裔が続々登場」(『東京横浜毎日』明治16年10月18日)と題する記事があるのに気がつきました。これは関西方面で楠氏の正統な末裔を称する人物が、大阪や京都府庁に名乗り出た、という記事なのですが、ようするに華族令の施行を前にして「忠臣」華族の認定を受けようという動きだったと推察されます。とすると、私の祖母の言葉もまんざらでたらめではなかった、ということになります。でも、このブログで紹介したように、私は傍流のまた傍流、間違っても「世が世なら・・・」と言うことはないでしょう。でも、ちょっとだけ「世が世なら・・・」と言ってみたい気もしますが、それは時代錯誤というものでしょうか。

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